悩みを抱える心のかたち

自分がいられる居場所を求めて

ここ連日ニュースにて報道される話題の中で、未成年者2名が行方不明の後殺害されていたという事件が発生した。逮捕された容疑者は40代の男性で、過去に同じような年ごとの少年たちを中心に拉致・監禁をしていた前科を有する人間の仕業と判明する。当初、発見されたのはまだ年端もいかない少女が道路に打ち捨てられていると言っても同然の状態で通行人により発見された。その時同行していた幼馴染の少年については行方が未だわかっていなかったため、まだ可能性は残っていると思われていたが最悪の結末を迎えてしまう。

その一方で、今度は大分の方でも女児が行方不明になる事件が発生したが、昨日無事に発見されて保護された。その時女児とともにいた女性は保護した少女の母親と面識がある人で、連れて帰ろうとしたが女児が拒否したために自宅へと連れて帰ったと言われている。正しい判断だといいたいところだが、あくまで情報から垣間見える一端を眺めているだけとなっているため、事実ははっきりとしていない。もし仮に女児の保護者と面識があったなら、どうしてそれより前に家族とコンタクトを取って安否を報告するなどの手段を取らなかったのか、そうすれば全国的に報道されるような事態には進展しなかっただろう。そういった点も警察は怪しいと見ているだろう。

こうして見ていると、本当にまだ年端も言っていない青少年たちが迷い、苦しんでいる姿が多く見られるのが見て取れる。誰しもそういった時期は必ず遭遇するもの、それを乗り越えられるかどうかはあくまで本人次第だ。ただ誰一人として自分の味方というべき人間が一人もいなかったら、誰も孤独という状況には耐えられないでしょう。そして本来なら味方でいてくれるはずの両親ですら、的という可能性も無きにしも非ずだ。親の愛情を一心に受けているべきはずの子供、ですが成長していく中で本当なら育んでいくはずの絆は無く、あるべきはずの居場所もない。だからこそ家という牢から逃げ出して、夜も冷めやまない街へと徘徊してしまうのだろう。

死亡した未成年者2名も、そして女児にしても自宅へ帰りたくなかったからというのがその心内だった。こうした事態は何も今に始まったわけではない、けれど問題はドンドン深い根を差してしまっているのかもしれない。

夜を出歩くことについて

今回の事件において、被害者に対してはお悔やみを申し上げることくらいしか出来ないが、それでも苦言を呈するとしたら、軽率に夜間の街を出歩いていたことだろう。この点については故人に鞭打つようだが、同時に保護者に対しても糾弾せざるを得ない点でもある。街は昼と夜ではその様相を一変する。いくら馴染みの場所でも昼夜が逆転するだけで、界隈として繁盛している景色が全てを飲み込むように鬱蒼とする。都心部の繁華街であれば電灯や深夜になっても営業している飲食店などの明かりで過ごしやすくなっているが、これが人気のない場所となると全てが暗闇とかしてしまう。

また夜は人の理性というタガは制御できない時間とも言える。かつて人は文明の利器が1つもない時代、焚き火だけで夜を凌ぐしかなかった。周囲からは獰猛な獣たちが徘徊する不気味さが漂い、その中での生活はまともに正気を保っていられるような場所ではない。現代でも同じだ、例え明かりがあるからといって道行く人の心が善意によって満たされているとは限らない。その結果、幼い命は無残にも食い尽くされるように蹂躙されてしまった。

しかしこうした事件があったからといって、夜更けに外出する子供は後を絶たない。どうして家にいたくないのか、その理由についても、

親がうざい

夜の方がテンション上がる

などと子供らしい、子どもじみた、子供ならではの言い訳を述べるだけだ。亡くなった未成年者にしてもそう、親との不仲が一因だったと言われている。けれど行き着いた先は早すぎる終点で、まだ後何十年と続く道をまともに歩くこともままならないまま、幕引きをしてしまった。

夜遊びをするな、などということをここで言うつもりはない。筆者は聖人でもなければ、善人といえるほど良心の塊とも言えない。寧ろ淡白にこの事件を淡々と眺めていたくらいだ。行方不明になっているという事件が発生した時も、可能性として手遅れだろうというのが一番最初にあった。まだ生きているという可能性を否定していたわけではない、けれどわずか過ぎる望みに期待するほど、理想主義者でもない。こんなことも思った、結局のところ『自業自得』だと。

こうした見ると薄情と思うかもしれないが、世の中の人間は大半がこう思うものだ。誰かが悲しんでいても実際に助ける人間などいない、苦しんでいる姿を見ればそれを見ているだけで腹の底から喜んでいるような、歪んだ人もいるくらいだ。子供が亡くなった、それを悲しいとは思う、しかしだからといって自分たちの生活に影響を及ぼすわけでもない。深夜を未だ徘徊する子供にしてもそうだ、あくまで他人ごとであり、自分とは無縁の世界だから関係ないと高をくくっているのだろう。それで何が起こったとしても、本人たちが責任を取るしかない。

ただそれくらい夜を彷徨う子どもたちは自宅に居場所が感じられず、仲の良い友達と過ごすことで自身のストレスを和らげようとしているのだろう。歪んだ社会、その原因となる一端は仄暗い薄闇の中に包まれていて、誰にも見通すことが出来ない。

ストレスとして

ストレスと言ったが、青少年たちが抱えやすい問題といっても色々な種類がある。おおまかに上げてみても、

  • 学校関係:友人・成績・進学など
  • 家庭関係:親・兄弟との不仲、両親の離婚や再婚
  • 人間関係:いじめ

こういうところだ。これ以外に抱える物があるとするなら、それは自分自身という存在に対しての疑問だ。こういった問いかけを、決して答えの出ない問題に遭遇して立ち尽くしてしまうことも、思春期ならではと言える。懐かしくも思うが、自分というものが見当たらないからといって、それで全てが終わってしまうわけではない。見つからなかったから自分はそこにいない、それだけで済まされる話ではない、生きている以上時間は経過していく。その中で自分なりの答えを見出さなければならない、これが人生というものだ。

ただ10代の少年たちにはそうした状況はピンと見えてこないもの、いくら世間で発せられる情報で社会について見聞できているといってもそれは表層的なものでしかない。実際に出てみてみないと見えてこないものは沢山ある、だからこそ人生は面白いと思える。しかし楽しいと思えるまでに、家族関係や人間関係、そして仕事関係に関する様々な問題が発生してしまう。順風満帆な人生を謳歌したい、ただ必ずどこかで問題が壁となって立ちはだかってしまい、行き場所を見失ってしまう。世知辛い中で自分がどうしたいか、どのように生きたいのかを選択することもままならないまま悩みは膨らんでいってしまっているのでしょう。

悩みの形

さて、ここからはそんな誰もが抱える悩みを小学生から社会人まで5つの段階にまとめて、それぞれの段階で抱きやすい心の悩みを考察していってみる。ただ一つだけはっきりとしているのは、いつの時代になっても抱え込みやすい問題は変わらないという点だ。それを考慮して色々見ていってみよう。